ガラスの仮面を通してみる演技論

ガラスの仮面という演劇を題材にした漫画があります。

主人公の北島マヤが舞台を通して女優のスターを目指していくという物語です。
 
僕はこの漫画を読んだことはありませんが、子供の頃に自宅のお茶の間のテレビで放送していたアニメをみたことがあります。
 
主人公の北島マヤさんは紅天女に出演する力をつけるために月影先生から人形の役を演じることを命じられます。
 
人形になりきるためにおもちゃ屋で人形を延々と観察したり、
 
動きを制限するために処分する予定の物干し竿を改良してギプスを作り着用します。
 
ギブスをつけたらまともに歩けず、日常生活を送ることもだいぶ困難となるほどです。
 
最初は雑念だらけではありましたが、稽古が進んでいくとその雑念も消すことができました。
 
全ては自分が人形になるために。
 
普段の動きも人形の動きを思考して人間よりもずっと関節が少ないと理解し、研究して実践するという徹底ぶりです。
 
子供ながらに演劇の世界は壮絶だと思ったものです。
 
交友関係などに支障をきたしそうな生活です。
 
演劇をやっている人はガラスの仮面みたいなことをやっているのかと思う人もいるかもしれませんね。
 
近いことはしていますが、あの世界ほど壮絶ではないと思います。
 
今回はガラスの仮面という漫画をとおして演技について考えていきましょう。
 
 

人形になりきることができましたが

壮絶な努力により北島マヤさんは舞台本番では見事人形を演じることができました。
 
物語では台詞を全くしゃべらない動きもまったくないただ椅子に座っているだけ、もちろん雑念なども全くない人形を演じていたと思います。
 
訓練の甲斐があって「人形をみるだけでも価値がある」と言わしめるくらい北島マヤさんの演技は絶賛されます。
 
台詞無し、動きが無い状態の人形が絶賛されるというのはとてつもないことなのです。
 
この二つのことができないだけで難易度がすごく高くなります。
 
台詞で魅せることができない、動きでも魅せることができないただ座っている、意志の無い状態の人形を演じることはすごく難しいのです。
 
本物と見間違うほどのクオリティだったようです。
 
北島マヤさんの演技力もあるのでしょうが、メイクのクオリティも相当高くないと難しいのではないでしょうか?
 
しかも人形役が絶賛される状態というのは作品の完成度としてはどうなのかな?という状態です。
 

演技においてスタンドプレイのメリットが少ない理由

 
お芝居においてスタンドプレイはあまり評価されません。
 
作品がすばらしかったし特にあの役者さんはよかったという評価だったらいいのですが。
 
人形を演じた役者が素晴らしいという評価のみならば舞台の作品をやる意味はあまり無いかと思われます。
 
ガラスの仮面では舞台自体の評判も良かったということですが、全体的に北島マヤさんが1人でお芝居をやりすぎている感じがします。
 
人形役なので、他と会話ができないことや動けないのである意味しょうがないとも思いますが・・・
 
月影先生は、北島マヤさんが紅天女を演じる糧として人形を演じさせました。
 
思惑通りにはなりましたが、劇団や作品のことを若干ではありますが、蔑ろにしている気はします。
 
スポーツと違って1つの座組に格段にハイレベルな役者がいた場合、悪い意味で浮いた存在になります。
 
お客さんに全体のバランスが良くない印象をあたえてしまいます。
 
わかりやすく言うと作品は今一つなんだけどこの役者さんはめちゃくちゃ良かったという評価につながってしまうのです。
 
野球で例えるとホームラン打ったけど試合に負けてしまいました状態です。
 
もちろん、役者である以上目立ちたいといった欲求はあるのでしょう。
 
しかし基本的な思考法として作品のため舞台上にいる他の役者のためを考えたほうがいいお芝居がしやすかったりします。
 

ここまでやる必要性があったのか?

 
さてここで北島マヤさんが人形を演じる際にここまでやる必要があったのかどうかを考察していきましょう。
 
ガラスの仮面は一つの極端な例えではありますが、北島マヤさんのやっていることは間違っているのかというとそうでもないのです。
 
体感的にわからないことがあればギブスを使ってでも体験できる範囲で体験したほうがいいのもあります。
 
北島マヤさん並に徹底的にできたらそれはそれで貴重な体験ではありますので。
 
まあ、月影先生が厳しいので追求せざるを得ないのかなという感じですが、
 
そこまでやらなければいけないのかというとそうでもないのです。
 
人形もしくはロボットやアンドロイドを演じる場合は普段の癖や人間らしさをいかに出さないようにするかというのがポイントだったりします。
 
 
北島マヤさんみたいに人形の動きを実際体験することも大事ではありますが、全てのことを体験することは不可能です。
 
例えば交通事故にあった人を演じる場合は体験することはできません。
 
しかしこれらを人間は想像力で補うことができます。
 
動かしにくい箇所はどこなのか?生活に支障をきたす場合どんなことに支障をきたす?起き上がるときにでるうめき声はどんな声なのか?など
 
こういった想像をして追体験していくというのが大事なのです。このような積み重ねが深い演技へとつながっていきます。
 
実体験できるにこしたことはありませんが、これは可能な限りでいいと思います。
 
交通事故だけではなく演技の世界は実体験するには難しいことはたくさんあります。
 
戦国武将とか中世のヨーロッパのフランス人や未来人など色々あります。
 
この場合はできるだけその人物がどんな生活をおくっているのか?ということを知っていくことが大切になります。
 
僕の場合は医者を演じる場合は医療系のドラマや映画をかなりみます。できるならば医者の人に話を聞きにいったりします。
 
医者がどんな生活をしているかを知っているのと知らないのとではお芝居のやりやすさが変わるのです。
 
このようにできる限り演技の材料になることを集めていくのもいいと思います。
 
そして頭の中でお医者さんの生活を想像してください。
 
頭の中で生活すると感情がでてきたりします。
 
外科医であればオペを初めておこなう恐怖や、成功したときの喜びなど、色々と感情がわいてきたらその感情を大事にしてください。
 
そういったことが、演技をするうえでの引き出しになります。

まとめ

今回はガラスの仮面の北島マヤさんが人形役を演じることを通して色々と考察していきました。

その中にもお芝居をやりやすくするためのヒントがちりばめられておりますので参考にしていただけたらと思います。

・ピンとこなかったら可能な限り体験してみる

・スタンドプレーのデメリット

・実体験できるにこしたことはないけど、想像力で想像して追体験する。

それにしても、仮に自分が人形を演じることになって台詞も無く座ってるだけでいいと言われたら相当きついと思います。

さすが北島マヤさんだと思いました。

>Thank you very much for reading the email through to the end.

Thank you very much for reading the email through to the end.

I'm glad if you come to read me again

CTR IMG